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随分前になりますが、24時間の介護状態で10年以上を過ごしていた時期があります。稼ぎは母親に任せて、一人娘の私が仕事を辞めての介護生活でした。拡張型心筋症といくつもの病を重ねての大正生まれの父の晩年は壮絶なものでした。身体が不自由なだけで思考も感情も通常以上に動いている状態なので、どなたの言うことも聞かず、医者や看護師の言うことも聞かず、入院先から勝手に退院してきたなんていうことも通常。時代が時代であったというのもあると思いますが、剣術を教えていたり、書家であったり、検事だったり、琴の奏者であったり、大阪で生演奏の音楽喫茶を起こしたり、若い頃には松下幸之助さんの秘書のひとりだったとか、小林一三さんとも一緒に面白いことをたくさんしてきたそうで。特許開発もしていました。何人ぶんの人生だ?と思うような忙しい人でした。その人が人生の後半には、役職のあった寺院から離れ、宗教を通して遠い星を目指していました。環境に支配されることの無い人生、ただひとり自ら輝く、道を開いていくことの重要性を模索し、出会う人に語っている人でした。そんな父の生まれは、捨て子です。いろいろな事情があったのでしょう。ぎりぎりの段階で障害者手帳を作らざるを得ない状態になるまで、医療費は100%個人負担。父には本当の名前がある、そしてこういう名だ、と知った時には、さすがに衝撃を受け。私は私生児として育てられていました。父という存在が居るのに母子家庭、のようであったわけです。幼い頃の私にとっては、父は、時々おみやげもって来る人でした。たくさんの物語を話してくれる人でした。
そんなとんでもない父と、母も変人なので、そんなおかしな夫婦の間に生まれた私のとんでもエピソードは山のようにあります。
しかし本日書きたいのはそれらのいろいろでは無くて。(笑)
10年以上の24時間介護生活の中で、私は自然と幽体離脱的なことを覚えてしまっていた、という話です。時に過酷な状況は、とある能力の開発に繋がってしまうこともあるんだよね、ということで。身体が寝ている状態で意識だけが家の中を自由に移動しながら状況を把握しているという状態を、私は通常に使うようになっていたのです。日々の負担が大きすぎて必要に迫られて、ということダと思われるので私的には危険な状態を見過ごすこと無く便利で助かっていたのですが、なのでその時は幽体離脱をしたくて、というわけではありませんでした。ものごころついたときから人では無い存在や、木や草と話したり、危険を回避したり、生き抜くすべやいろいろを教えてもらったりしている子ではありました。
そんないろいろある私の日常の中での、へんてこな学び方による意識の開発を少しずつお話していけたらと思います。今になればこそ、お笑いネタ以外の何でも無いよ、という話ばかり。もちろん、出会いも奇跡も涙も笑いも、ぎゅっと詰まっています。何度思い返しても足りないくらいの感謝も、いっぱい。
自分の力ではどうにも出来ない環境にいたり、苦しい状況にあるとしても、それがいつかの未来に自分を助けてくれるものに変わっていたということは本当にあります。今の経験を望んでなどいないと思う状況にあったとしても、です。乗り越えて、生きて、なんとか過ごして、生き続けて、やがていつか風景が変わるときがやってくる。そこまで生きて、ようやく意味を知るということもあります。到底思えなかったことに対して、ありがとうって思う自分が、そう思える自分が出現する瞬間に立ち会うことも出来たりします。

2018.09.01 Sat l sana日記 l COM(0) TB(0) l top ▲

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