ひとつのことをテーマにあらゆる方角から捉えることを練習したり、自分の感情を見つめながら様々を考察するということは、日常で継続的にその姿勢で生きるのであれば、わかりやすくそれは瞑想や透視の練習にもなります。イメージングの練習や他者の立場に立ってものを考えてみるということやひとつのことを考え続けたり集中するということ、答えに到着し行動に移すということ、などの練習がそこには自然と存在しているからです。
技というか方法論というか、そういったものばかりを求めている間は、自らの本性は開かれていなくて、依存的でさえあって自分の意思が立ち上がっていないので、判断できない、迷い続けるという場面に多く出会うことになるでしょう。
自分に興味を持つことは重要なことです。自分の魂のルーツ、持っている物語に向かおうとするということは、練習や探求、研究姿勢を長期に必要とするので、それは長い道のりにはなるでしょうが、本物の宝に出会う旅になるでしょう。
私という存在自体が何度も変容しながらの旅になるでしょうから、いつかの私はもうこの今の私ではなくなっているはずです。考え方や感じ方、意志や行動も今の自分とは違っていくでしょう。いくら想像してもそれには到着せず、実際に旅することでしか手に入らないものたちとの出会いの道を選択するかどうか、ということです。
考えている間は、それは起きないし、手に入らない、ということなのでしょう。答えを知ってから選ぶ、行動する、という順序は成り立たないのです。自分の本性に向かうという旅や日常は、「今のままでありたい」と考える古い自分からすると、ある意味取り返しのつかない道、ということでしょう。
私はそれを素敵だなぁ、と思っています。

2017.10.23 Mon l サイキックワーク・意識の旅 l COM(0) TB(0) l top ▲

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