自分の感情や行動のあり方の出どころに向かう練習を続けていくと、やがて無自覚に表現している「感情」からの行動に詳しくなっていくことになります。心のすきまという「間」に詳しくなります。それは通常私たちが使っている視覚とは違う「視る眼」を持つこととも関係があるし、それはまた「魔」ということに詳しくなるということでもあるでしょう。
師匠が展開している十牛図とエニアグラムを私は日々の中で研究し続けていますが、さらに説明のベースにすることも多いのですが、私がこの見えないものの基本を学んだ最初は「見えないものを見ろ」と教え続けた父親がそばにいたからというのもあります。父は柔剣術に長けた人でした。若い頃には人に教えていました。ハエは普通に指先でつかむ、という人でした。
さらに幼い頃から病がちだった私には、物心ついたころには「教えてくれる人たち」というのが存在していることを自覚していました。この人たちは「見えない」存在です。そして難しくて理解できないことを教えてくれ、けれどそれを理解したくてひとりでものを思う時間を大切な時間としていました。難しいことというのは、個人的な欲求とは関係ない世界のことです。意識についてとか、宇宙についてとか。
土手に咲く花の揺れ方をじーっと見ながら、ありんこの集団を追いかけて地下での物語に熱中しながら、河原で形を変えつつ動く水の流れを延々と見つめながら、「なんでここ(この人生)に居るんだろ?」「なんで私は今こういうことを思い考えているんだろう?」というようなことを考えていました。具合が悪くて学校に行けないのをいいことに、その頃は両親とも働いていたので、元気な時には近所をひとり冒険です。じっとしていない子でした。発作が出ている時には、壁の一点を見つめたり、空間の一点を見つめながら「何か」を探していました。何かというのはその頃の自分の言葉で言うと「ほんとうのこと」です。
最近これまでの過去の整理整頓ということが起きやすくて、積極的に取り組むようにしています。見たくはなかったもの、認めたくはなかったもの、結論を出さねばならないが先送りにして来ていること、過去の感情の手当て、などなどです。掘れば掘るほど、あるものです。学んでようやく手を付けることができるようになったあれやこれやが、あるものです。これからも様々な謎解きに向かい続けるでしょう。

2016.04.07 Thu l sana日記 l COM(0) TB(0) l top ▲

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