見せられたまんまが本当の姿だとは思っていない。これまでの歴史の中でもそうだと思う。だからこそ、考える力が必要とされるのだろう。感じる力も。それは今を生きている私たちが自分の人生の主としてどう生きるかに関係するだろうし、常に何に気が付けるかということでもあるのだろう。
さらにここで思い出すのは、メソポタミアの「シュメールの碑文」を研究していたゼカリア・シッチンの冥王星についての記述。それはもちろん証明される話ではなく怪しい話としても扱われている内容で。私にとっては、そこは謎のままだけれど、現代の科学が全てを捉えているとは思っていない。
今までのようにもう何もかもが隠されたまま、ではない時代が来ているのだなと思う。象徴的に捉えるなら、私たち地上に生きる人間の、潜在意識との出会い方、死に対する捉え方、魂としての存在と名前の付いた私との間の懸け橋のあり方、などが大きく変わりゆく時代の境目に今いるのだろうな、と思う。忘れ去られた物語も、ただただ怖い、触ってはならぬ、という存在ではなく、紐解ける者も現れるのだろうし、同時に解かれる時期のものがあるのだろうと。

2015.07.17 Fri l sana日記 l COM(0) TB(0) l top ▲

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