望んでいいって言うけれど、自分の好きなように生きていいって言うけれど、どこまで望んでいいのですか? 許されるのでしょうか? 私だけがしたい放題に生きていいのでしょうか? という質問が時々聞こえてきます。
おそらくはこの場合の質問の多くは、誰かの力を、援助を必要としている、アテにしているという場合でしょうか。自分が好き勝手することで誰かが我慢しなければならないと思い込んでいたり、例えば自分のためにその人が自分を支えて、その人を生きることを我慢し耐えるという人が必要だと思っているということです。好きに生きていい人と我慢して生きなきゃいけない人と、そんな風にこの世は分かれてなどいない世界です。生きている私たちはすべて等しい存在価値です。
好きなように生きていいというのは、好き勝手我が儘に思い付きで生きたらいい、という意味ではありません。だからこそ、本当の自分の声と繋がっていくというワークをたくさんの方が実践しています。

ponpon

表面の自我の揺れるばかりのあてもないところだけにフォーカスするのではなく、意思を育てていくということに着手してみましょう。
例えば自分というなんだかよくわからない種からいつかどんな野菜に育つのかを丁寧に世話をしながら見守っていきます。この自然界の中で、社会という中でです。時にわからず本を読み、人に尋ね、虫を観察し、天候を見て一喜一憂し、必要なものだと思えるものを与え、不要だと思えるものを抜き、時に病を克服し、時に失敗しさらに挑戦し、やがて時に見たことのない花が咲き、やがて実が成る。そう実行し続けているうちに、その野菜について詳しくなっていて、特徴や弱点や得意げなところを話せるようになっていくでしょう。この活動にはお休みはありません。けれど、そうしたいからそうし続けることになっていくみたいです。変わっていくのですよね、自分の意識が。喜びとか楽しみとか、やりがいとか充実…、そういう風に呼ぶ人もいます。
私にも将来に迷い目の前のことにも迷い続けて決断力も無かった北陸のとある時代がありました。そんな時に光がさした瞬間がありました。紹介で行っていたアルバイト先でのことです。いちご農家のとても仲のいい老夫婦に言葉ではなく実際の日々の動きで人生を教わりました。
収穫期の出荷準備をある程度終えたある日の片付けの最中、まだ朝の5時を過ぎたあたりだったでしょうか。いろんな話をしていて私はただ聞いていたのですが、そんな私に突然イチゴを見つめながらおじいさんは言いました。
「不思議やもんなぁ土の中から出てくんだからなぁ…、大地の真っ赤な宝石やぁ、これは贈り物やぁ。」
そう言ったおじいさんの顔が突然輝いて見えビックリしてしまいました。電気が走るみたいな衝撃です。私にはそのおじいさんの存在が眩しく感じられました。
「本当に必要なのは、このまっすぐな感謝だ!」と思ったのを度々今でも思い出します。
そこから自分は考えを改めました。「自分が、」という我を張る私、「自分がうまくいきたいのにうまくいかない」「自分が成功したいのに成功しない」「自分が欲しいのに○○のせいで手に入らない」などなど否定性やエゴ満載の私をひとつずつ受け入れていく中で、目的に向かう自分の意思が少しずつ変容していくのを体験しました。地味に見える練習や模索や研究や実行が大切なのだと思えるようになっていったのですね。いつしかひとつひとつのことが私にとって重要なことになっていきました。
「私はこの活動をしたいから今日もしている、させていただいている、ありがとうございます。」
なんて思ったり口にしたりするような自分になってしまったのです。うまくコトが動き出す用になたのはそれ以降です。
ご夫婦もおじいさんもイチゴも過去の自分自身も私の恩人の一人です。
本日も今ここにいます、様々なご縁ありがとうございます。

2015.04.13 Mon l sana日記 l COM(0) TB(0) l top ▲

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